北条早雲として有名な伊勢宗瑞の出自については、明治時代以来、伊勢国の素浪人とされてきました。しかし、良好な史料では備中伊勢氏の出身とするものがほとんどです。宗瑞は、伊勢新九郎盛時という名前で室町幕府に出仕し、将軍の近くで相伴衆を務めた人物だったのです。
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[10] 小田原北条氏の女性たち
小田原北条氏は、有力な武家や公家との婚姻を重ね、地域との縁や位階の高い血筋を北条家に入れていきました。これにより、北条氏は地域支配の正統性を主張するとともに、家格を高めることに成功しました。ここに登場する女性たちが歴史の表舞台を飾ることはありませんが、時代に翻弄された彼女たちの存在が北条氏を支えていたのです。
[9] 小田原北条氏と文化の形成
小田原北条氏は、為政者の嗜みとして和歌や書画、蹴鞠など様々な教養を身につけていました。また、多くの文化・技術を小田原に移入し、「小田原物」という新たな文物を生み出しました。宗瑞末子の幻庵宗哲は文化人として著名であり、小田原は東国一の文化都市となったのです。
[8] 時代を画した小田原合戦
織田信長亡き後、徳川家康と同盟を結んだ小田原北条氏は、家康とともに豊臣秀吉と対立します。その後、家康は秀吉に懐柔され、北条氏は秀吉の天下統一を阻む最後の勢力として位置づけられました。秀吉は、21万の軍勢を率いて関東に迫り、北条氏は小田原城に総構を構築して守りを固め、関東各地に点在する支城と連携した防御態勢で秀吉を迎え撃ちました。
[7] 戦国時代の小田原
戦国時代の小田原は、関東一の繁栄を誇っていました。そして、その小田原を本拠とする小田原北条氏は、上杉氏や武田氏などとの抗争を繰り広げながら、宗瑞・氏綱・氏康・氏政・氏直と五代100年にわたって広く関東一円を支配しました。
[6] 小田原城の城の役割
小田原城には、本丸に将軍家専用の御殿、御用米曲輪に幕府米蔵が置かれるなど、幕府の城としての役割がありました。また、6箇所の関所を管轄し、幕末には異国船に備えた海防を担当するなど、陸と海の番人としての役割も持ち合わせていました。
[5] 江戸時代の小田原城全体図
江戸時代の小田原城は、戦国時代に築かれた小田原城のうち、東側の低地部を中心に用いられました。寛永10年(1633)の小田原寛永地震の被災とその復興を契機として大幅に改修され、関東地方では珍しい石垣と白亜の天守を備えた城郭となりました。
[4] 小田原城の城主たち
江戸時代の小田原城は、徳川家譜代大名である大久保家・阿部家・稲葉家などが城主を努めました。途中、徳川二代将軍秀忠が小田原城に隠居する計画も浮上するなど、小田原城は江戸の西を守る要の城として重要視されました。
[3] 小田原城天守模型と小田原城天守引図
小田原城には、江戸時代に造られた3基の天守模型と天守引図があります。現在、小田原城天守閣では1階と5階に天守模型、1階に天守引図のパネルを展示しています。現在の小田原城天守閣は、これらの資料を参考に設計されました。
[2] 全国「天守」高さ比べTOP10
「天守」とは、城郭の象徴的な建物で、基本的には一番高い建物でもあります。現在は五階建てとなっている小田原城天守閣は、江戸時代は三重四階で、平面積が大きいために高くは見えませんが、石垣の上からの高さは27.2mで、全国7番目の高さです。